聖書から「いのちの尊さ」

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」マルコの福音書8章36-37節         

 イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」と言われました。全世界と自分のいのちとを比較しています。一体、全世界を手に入れた人がいるのでしょうか。世界制覇を夢見た人はいました。アレキサンダー大王はマケドニヤから始まり、エジプト、メソポタミヤ、イラン、そしてインドにまで勢力を広げました。しかしその野望は彼の死を持って終わりました。だれも全世界を手に入れることはできません。

 また、たとえ世界の一部を手に入れたとしても、それを最後まで持ち続けることはできないのです。8世紀から9世紀のヨーロッパにフランク王国が築かれ、その王として権勢を誇ったのがカール大帝でした。後に、カール大帝の墓が考古学者によって掘り起こされました。そのとき、カール大帝は彼の富とともに彼の王座に座ったままで発見されました。彼の遺体はすでに干からびて骨だけになっていました。彼の頭の王冠は彼の頭蓋骨とともに崩れ落ち、王座の前に散乱していました。彼の手に聖書が握られ、上記の聖書箇所が開かれていて、彼の指がまさに同じ箇所を指していたといいます。それは何という皮肉なことでしょうか。彼は手に入れたものを最後まで持ち続けたかったのです。しかし私たちはみな手に入れたものを最後まで持ち続けられないのです。

 さらに、私たちは手に入れたものによって本当の満足を得ることができないのです。たとえどれほど多くのものを手に入れたとしても、私たちが持っている人生の深い渇き、求めをそれによって満たすことはできないのです。私たちのいのちは私たちを造られたお方、神様のところに帰るまでは決して真の憩いと満足を持つことはできないのです。私たちのいのちをイエス様を通してしっかりと神様に結びつけ、救いを得ることが大切です。(牧師 笠川徹三)