聖書から「喜びは与えることからくる」

「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」                      ピリピ人への手紙2章17節

 この箇所を分かりやすく訳した聖書では「あなたがたの信仰を、供え物として神様にささげる時、その上に、たとい私の血を注がなければならないとしても、、あなたがたのために、いのちを捨てなければならないとしても、、私はうれしいのです。そしてあなたがた一人一人にも、この喜びを分けてあげたいのです。」とあります。ここでパウロが言いたいことのひとつは、喜びは自分を他の人のために提供し費やすことによるということです。

 彼は、「私の血を注がなければならないとしても」と言います。注ぐという言葉はギリシャ語で「スペンドオー」と言い、英語の「スペンド」(費やす、消費する)につながっています。パウロの喜びは、自分をピリピの人々のために費やし、提供することによって与えられています。私たちは儲け、稼ぐことに一生懸命です。また蓄え、貯蓄することに一生懸命です。しかし稼ぐこと、蓄えることでは本当の喜びを持つことはできません。聖書が私たちに教えることは正反対で、むしろ与えることこそ真の喜びであるというのです。私たち自身を他の人たちの繁栄と祝福のために用いることにこそ喜びがあるのです。

 私たちが気前良く与えるためには、私たち自身が大いに豊かであることを知っていなければできないことです。パウロはこの手紙を書いた時、ローマの獄中に囚人として試練の中にいました。周りの人から見て、彼は何も持っていない、不運なそして惨めな囚人に過ぎなかったでしょう。しかし彼自身はまったく違った考え方をしていました。イエス・キリストにあって彼は彼自身がいかに豊かな者にされているかを知っていたのです。そのゆえに彼は惜しみなく他の人々に彼自身を費やすことができたのです。私たちもパウロのようにキリストにあって大いに豊かな者とされて、他の人に惜しみなく分かち合う者となり、大きな喜びを経験したいものです。(牧師 笠川徹三)