聖書から「愛は親切です」

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。コリント人への手紙第一13章4節

 聖書は「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4章32節)と勧めています。なぜ私たちは互いに親切にしなければならないのでしょうか。第一に、それは私たちが親切を必要としているからです。私たちは不親切にされたいでしょうか?私たちはいつも不親切にされて嫌な思いをしてきたはずです。不親切な扱われ方によってどれほど私たちは傷ついてきたことでしょうか。もし私たちが親切にされたいなら、まず私たちが他の人に親切にすることです。聖書は「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6章7節)と言っています。親切の愛を豊かに蒔く人になることです。

 また、神様が私たちに親切にしてくださったからです。神様はその親切に溢れた愛によってイエス様をこの世に遣わし、イエス様の十字架の身代わりの死を通して、罪の赦しを与えてくださったのです。私たちの弱さを知り、私たち自身では解決できない罪からの救いをイエス様の十字架を通して成し遂げてくださったのです。私たちが救われたのは神様の親切によるのです。私たちは神様から親切を受けたのですから、他の人に親切にしなければならないのです。

 さて、親切はどこで必要とされているのでしょうか。それは、まず争いの中でです。私たちは人間関係で問題が生じたとき、親切が求められています。論争になったとき、相手を傷つけるのか、それとも相手を祝福するのか、私たちはどのように語るべきか注意深くあるべきです。また、親切は私たちの家庭の中で必要とされています。私たちは家庭で不親切になっています。一番愛すべき人たちに対して不親切になっています。子どもたちを立派な大人として育てていきたいと願うなら、親として親切にすることです。親の優しい言葉が子どもたちを励ますからです。子どもたちを落胆させず、励ますことです。子どもたちは親からの親切を必要としています。(牧師 笠川徹三)