聖書から「祈りは答えられる」

「あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地をはるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」申命記32章52節
「祈りは答えられる」、これは私たちの確信です。しかし神様を自動販売機のような機械として考えるならば、その考え方は間違っています。神様は生ける神様です。またいのちの源であるお方です。その神様がいのちのない機械のように判で押したように私たちの願いに答えられるはずもありません。「祈りは答えられる。」 その通りです。しかし神様の深いお考え中で導かれることです。
聖書の中で、祈りが願ったように答えられなかったことがあります。モーセ、イエス様、そしてパウロです。モーセは約束の地カナンを臨み見ながら、入ることができませんでした。イエス様はゲッセマネの祈りで十字架の道を取り除いてくださいと願いましたが、父なる神様の御心は十字架でした。パウロは肉体に与えられた一つのとげと表現される病から解放してくださいと三度も主に願いましたが、その切なる祈りは答えられませんでした。答えられない祈りの中で、私たちはしばしば戸惑い、ある場合は、神様への不信を抱き、神様を呪うことすらあるのではないでしょうか。しかし私たちの前に生きた多くの信仰の勇者たちは、答えられない祈りの中で、なお、神様への信頼をもって神様に叫び祈ったのです。本当の信仰とは、また祈りとは、祈り願いとは全く逆な状況の中でも、なお神様に信頼して、委ねて叫び続けることなのです。その求めの中で、神様の深いお考えを悟らされ、その試みの中に留まっていることの意味を気づかされるのです。そのような意味で、祈りは答えられるのです。大切なことは、神様を便利な自動販売機のように考えないことです。もっと深みに漕ぎ出して、私たちの信仰の感性を磨き、神様の知恵の深さを学ぶことです。(牧師 笠川徹三)