聖書から「いつも試されています」

「イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。』 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」               ヨハネの福音書6章5~6節

 イエス様一行は休息のために寂しい所に退かれました。しかし群衆はイエス様の後を追い、集まって来ました。イエス様は休息を返上して、群集に話し始められました。弟子たちは夕方になり食事の問題が気になり、早く群集を解散させて欲しいと願いました。イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と試して問われました。ピリポは「200デナリのパンでも足りません。」と計算して答えました。弟子のアンデレが少年の持っていたお弁当を持って来て、「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と言いました。イエス様はお弁当を取り、神様に感謝をささげてから、人々に配ったところ、男の数だけでも5千人が食べて満腹しました。

 さて、イエス様の「ピリポを試すため」という言葉に注目してみましょう。弟子たちはこのときイエス様によって試されたのです。弟子たちは食事のことがどうなるのかと心配していました。イエス様は彼らの心を見抜かれて、彼らを試して質問されたのです。弟子たちはいろいろ計算したり、何かないか探しました。その結果少年のお弁当しか見つかりませんでした。落胆している弟子たちの前でイエス様はすばらしい奇跡を行われたのです。弟子たちの失敗は彼らの前におられるお方がどのようなお方かを忘れていたことです。

 私たちも弟子たちと同じように毎日の生活の中で試されています。弟子たちが大きな問題に直面したように私たちも大きな必要を持つことがあります。そのような時私たちは試されているのです。私たちは弟子たちのように慌てふためくのでしょうか。それともイエス様に祈って信頼して歩むのでしょうか。主に信頼して祈りつつ歩みたいものです。(牧師 笠川徹三)