聖書から「日ごとに罪を取り扱う」

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ヨハネの第一の手紙1章9節

 聖書の中に、毎日という頻度で行うべき事柄が教えられています。その重要な事柄のひとつは罪を取り扱うことです。旧約時代には神様と交わりを持つために祭壇が築かれていました。その祭壇に祭司は毎日近づき、犠牲の動物をささげました。その目的は人々の罪の赦しのためでした。罪の問題を残したままで神様と交わることはできません。罪は神様との交わりを壊すものだからです。

 クリスチャンとして私たちはイエス様の十字架による罪の赦しを受けています。旧約聖書に命じられているように、祭壇に毎日近づき犠牲の動物をささげる必要はありません。しかし罪を取り扱うことは昔も今も変わりなく毎日なすべき務めです。私たちの罪はイエス様を信じ救われたとき、過去、現在、未来にわたる罪の赦しをいただいています。しかし、それにもかかわらずイエス様の十字架の赦しに基づいて、毎日罪を取り扱う必要があります。

 その理由は、私たちは弱く日ごとに過ちを犯す者だからです。新約聖書で罪をハマルティアというギリシャ語で表現しています。そのハマルティアの意味は「的外れ」です。私たちは神様の基準からはずれ易い者です。不信仰に陥り易い者です。誘惑に負けて失敗を仕出かす者です。それゆえに、罪をそのままにしておかないで、日ごとに神様の前に告白し、赦していただく必要があります。神様は義なる正しいお方であり、罪を裁かれるお方です。神様が義であることにおいて決して神様を見くびってはいけません。しかし罪を認め、それを告白し、悔い改める者を神様は寛大に赦すお方です。ダビデが誘惑に負けて大きな罪を犯し、預言者ナタンにその罪を指摘されたとき、彼はすぐに神様の御前に泣き崩れ、悔い改めたのです。神様はダビデを赦されました。神様は罪を認め、告白する者にイエス様の血によるきよめを与えてくれるのです。(牧師 笠川徹三)