聖書から「祈りが答えられないとき」

「それゆえ【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。【主】が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。」イザヤ書30章18節    

祈りが答えられないとき、2つの理由が考えられます。第一に、それは神様の御心に適わない祈りだからです。ヤコブの手紙4章3節「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」とあります。たとえ相手のために祈ったとしてもそれが自分中心の動機から願うのであれば、その願いは聞かれません。祈りが聞かれるための根拠はその人が神様とともに歩み、神様の御心に従って生きていることです。

第二の理由は、神様が意図的に遅らせているからです。祈りが神様の御心に適いつつも答えられないのは神様が一番良いタイミングを計っているからです。ヨハネの手紙第一5章14~15節に「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」とあります。私たちが考えている予定と神様が考えている予定とはちがうのです。御心に適う祈りはすでに聞かれています。ただそれが答えられるときが神様によって計られているのです。神様の栄光が一番良く現わされるときを神様は待っておられるのです。ラザロの復活は良い例です。ラザロの危篤がイエス様に告げられたとき、イエス様はすぐに出かけずに、なお2日同じところに滞在されたとあります。そのときイエス様はラザロの病気は死で終わるものではなく、神様の栄光が現されるためだと言われました。神様の栄光が一番良く現わされたのはラザロが死んで墓に葬られたときでした。その絶望の中からラザロはイエス様によってよみがえらされたのです。私たちは祈りが聞かれたと信じて祈り続けるべきなのです。恵もうと待っておられる神様を待ち望むことです。(牧師 笠川徹三)