聖書から「目を覚まして祈る」

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」マタイの福音書26章41節

 イエス様は祈りの人でした。イエス様の公のご生涯は3年半でしたが、多くの時間を祈りについやされました。多忙な日々を過ごす中で、いつも朝まだ暗いうちに起きて、ひとりで寂しいところに出て行かれ、神様と交わるために祈られました。一日の終りにもひとり静かに祈られました。イエス様は、祈りの雰囲気が満ち溢れる中でご生涯を歩まれたのです。

一方、私たちの祈りは困ったときの神頼み式です。何か事が起きて始めて、目を覚ましたかのように祈り始めるのです。しかしイエス様の弟子であろうとするなら、私たちはイエス様が祈られたように、祈りをもって神様との豊かな交わりを体験していく必要があります。またそれは天の門を開き、天にある神様の祝福をいただくことになるのです。

 聖書は多くの紙面を割いて、祈りの力、祈りの重要性について語っています。ヤコブの手紙は祈りの有効性についてこう述べています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(5章16節)。旧約聖書において、アブラハムのしもべは主人の息子のために祈ると、そこにリベカが現われました。またヤコブが格闘して祈ると、その祈りは、兄エサウの20年にわたる復讐の思いを大きく変えさせました。モーセが祈ると、アマレク人たちは打ち負かされました。不妊であったハンナが宮で涙して祈ると、その祈りが聞かれ、サムエルが生まれました。イザヤとヒゼキヤが祈ると、18万5千人のアッシリヤ軍は退けられました。エリヤが祈ると、3年間雨が降らず、また祈ると雨が降り始めたのです。これらは旧約聖書に出てくる祈りの答えの一部分です。

 詩篇の作者が「私はいつも、主を前にしています。」(詩篇16篇8節)と語るように、何事にもまして、祈りを優先させることです。祈りとはいつも自分の前に主を置くことなのです。(牧師 笠川徹三)