聖書から「あわれみの心を忘れない」

「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。」イザヤ47章6節

イスラエルはその歴史の中で国が滅びるという大きな苦しみを経験しました。その一つは、紀元前6世紀に起きたバビロニアによるものでした。そのとき、バビロニアは強大な勢力を誇り、弱小国イスラエルを一飲みに滅ぼしてしまいました。彼らは、容赦なく、破壊を試み、イスラエルを廃虚としました。また、彼らは残された人々へも過酷な責めを負わせ、主だった人々を捕囚としてバビロニアへ捕らえ移していきました。イスラエルはこの悲惨な滅亡の出来事を自らの不信仰に対する神様の懲らしめとして受け留めたのでした。

それにしても、ここで預言者イザヤが語ることは、権勢を誇ったバビロニアが行ったあわれみのない、残酷な仕打ちへの告発でした。バビロニアは、強大な国力を誇りましたが、それは神様の支配の中で許され、イスラエルの懲らしめのために用いられたのに過ぎなかったのです。しかしバビロニアは彼らの権勢がいつまでも続くと過信して傲慢になってしまいました。後に、彼らは滅びましたが、自分たちが滅びるとは思っていなかったのです。

さて、これは私たちへの教訓ではないでしょうか。私たちの愚かさは、順風満帆の中では自らを慎み深く考えられず、謙遜になれないことです。あたかも自分の成功は自分の努力の結果として、その果実を一人占めし、誇ってしまいがちです。すべての出来事の背後にある神様の支配について心を留めることができないのです。また自分の終りのことを思うこともないのです。たとい、今成功していようと、いつか打ちのめされる時が来ることを予期して、他の人にあわれみ深くあることが、神様に喜ばれる生き方です。自分の事ばかり考えずに、他の人の必要に目を留め、手を指し伸べる、あわれみ深い人でありたいと思います。(牧師 笠川徹三)