聖書から「あなたの価値はどこから来るのか」

「 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」ペテロの手紙第一1章18-19節 

 私たちは自分の価値をどこから得ているのでしょうか。そのひとつは外見ではないでしょうか。外見が良ければ、気分も良いに違いありません。自分自身をどのように見ているか。また他の人からどのように見られているか、たいへん気になるものです。私たちは自分をよく見せようとしてたくさんのお金を自分に投資しています。しかし聖書は私たちに警告しています。箴言31章30節に「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、【主】を恐れる女はほめたたえられる。」とあります。私たちのからだは年とともに衰えていくものです。もし外見に自分の価値をおいているならば、それは自分を不安定な価値の中に置くことになります。サムエル記第一16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。神様は私たちとは違い、外見を重んじることはしません。聖書は私たちに外見で判断するなと警告を与えているのです。

 それではいったい私たちの価値はどこから手に入れることができるのでしょうか。その答えを出す前に、価値がどのようにして生まれて来るかを考えてみましょう。価値は人々が喜んでそのもののために支払う額によって決定されるのです。ひとつの絵に百円を出す人もあれば、その同じ絵に一千万円を出す人もいるのです。価値とは人がそれにいくら出すかによって決まるのです。私たちの価値はどこから手に入れることができるのでしょうか。その答えは上記の聖書箇所にあります。「キリストの尊い、血によったのです。」神様は私たちを救うためにひとり子イエス・キリスト様を私たちの身代わりとして十字架にかけて、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。神様はつまらない者のために尊いイエス様を犠牲にしたのではありません。私たちの価値はイエス様の身代わりの死によって明らかに示されているのです。(牧師 笠川徹三)